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- 「北斎と幽霊」について(3)
- この作品の背景になっている文化年の朝鮮使節来日とは、文化8年(1811年)に訪れた朝鮮通信使のことです。朝鮮通信使は室町時代より来日しており、将軍の代替わりなどに来日するのが通例となっていました。このときの来日も、家斉の11代将軍就任祝賀のためでした。家斉の将軍就任は実際は1787年だったにもかかわらず、老中松平定信が延期要請をしたためこの年となった経緯があるようです。
主人公の一方である狩野融川は父、閑川の跡を継いで奥絵師となりました。融川が阿部豊後守に罵られて切腹をしたというのは実話であるようです。さて、この時の老中、阿部豊後守とは誰だったのでしょうか。
一般に阿部豊後守というと初代忠秋を指すようです。しかし、この人は文化年間には疾っくに亡くなっていますから、ちがいます。家斉治世の老中で阿部姓だと正精なのですけど、この人は備中守。また正弘も老中に1843(天保14)年に就任しており、備後福山藩主だったことから、この人物を指しているのかも知れません。少し調べたものの、判明には至りませんでした。
葛飾北斎が狩野融川の弟子だった時期は確かにあります。作品中では北斎は当時中島鉄蔵と名乗っていたことになっています。本文中でも触れられているように北斎は生涯何度も名前を変更しており、もともとの姓は川村でしたが、中島伊勢の養子になったため中島姓を名乗っていたようです。その後、浮世絵師・勝川春章の門下となり、浮世絵師としてデビューしています。この頃の雅号は勝川春朗でした。狩野融川に弟子入りしたのは1973年といわれています。
狩野派は言わずと知れた本格的日本画の名門。融川から破門されたのも実話で、融川の弟子だった時期は短かったと思われます。
作品中では赤鍾馗の幟り絵で有名になったとされています。朱鍾馗図幟は北斎45歳、文化2年(1805)頃の作といわれています。したがって作中で語られているように融川の事件が起きる前ですから、前後関係に誤りがあります。
- 2010年6月17日 15:49 editors | 個別ページ | トラックバック(0)
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