およそ一千年以上も昔、平安京と言う都が京都より開かれた時代――。
その平安の時代。それはまだ、人と妖かしとが共に生きていて、平安の都では闇夜を鬼や魔物と言った怨霊たちが徘徊し、身分の高き者たちを襲うと言う怪異が相次いでいた。数多くの神社仏閣がこの頃建立されたのも、一つにそれらの鬼、怨霊、物の怪らの祟りから逃れるためのものでもあった。そして、それら都の人々が信じていた、目には見えぬ妖しきものたちを、世の理をもって制する者たちがいた。
人の相を観、星の相を観て、天地あまねくに通ずる者達。彼らこそ、人を平安の闇から陽へと導きし、陰陽師と呼ばれる者達であった。
その中で、もっとも秀でており優れていたと伝えられる陰陽師が、何を隠そう天文博士の安倍晴明であったそうな。ところが、それは表舞台に出て来て活躍していた陰陽師の名前だけ。裏舞台には未だ、晴明をも超えるであろう陰陽師が、数多存在していたと言い伝えられている。
格差社会がすでに確立していたこの時代、名前を抹消され歴史の表舞台には決して出て来ない裏世界最強の陰陽師。その一人が、「在原月夜美《ありわらのつくよみ》」と言う女であった。
この在原月夜美と言う女。何処ぞの者なのか、その身分すらも分からぬ謎のその女は、陰陽寮にも属さずに、火鼠より作られたと伝え聞く紅き衣を身にまとい、式神を二人ほど引き連れ、妖刀紅夜叉《べにやしゃ》を荒々しく振りかざし、妖しき鬼や物の怪らを世の理を持って制していた。その姿はまさに、鬼そのものであったと言う……。
しかし、その鬼気迫るような最強さゆえに女は、都の人々から『荒ぶる紅き陰陽師』と言う二つ名で畏怖され、平安の地の何処ぞの森の奥深くに謀反の罪と言う汚名を着せられ、封印されてしまったのである。封印されてしまう時、その女が最後に不敵な笑みを浮かべ皆に言い放った言葉が、「平安の地はよもや雨模様だな……」と言う、何かを哀れむような不可解な言葉であったそうな。
そして、それからおよそ百年後……。
「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」
平安の地より北東、つまりは艮《うしとら》の方角辺り。その艮の方角は、中国の儒教や日本独自の陰陽道では鬼門の方角と言われており、悪しき者たちが出入りする門と昔から言われている。その方角の奥のまた更なる奥にて、ブナやけやき、ヒノキなどと言ったまだその時代では当たり前の大きさを誇った原生林の木々が生い茂った、人をも寄せ付けぬ深い森があった。名をば、「月黄泉の森」と皆は畏敬の念を込めてそう呼んでいる。と言うのも、その森には様々な恐ろしい噂や伝説が飛び交い、近くに住む者は決して誰も近付こうとはしない樹海であったからだ。ある者は、その樹海にてさ迷い、二度と戻ってこなかった。またある者は、迷いはしたがどうにか戻ってこられた。がしかしその時、その樹海にて生きたままの女が鬼に成ると言う、生成姫《なまなりひめ》を見たと言う……。またある者は、双子の化け物に追いかけられたと言う……。
そう言った奇怪にして怪異の多い、めったに誰も近付こうとはしない地を、ワタシは、水干と言う軽い着物を着ながら、まるで長旅に出掛けると言う風な雰囲気ではない姿で、死に物狂いになって走っていた。名前を橘忠常《たちばなのただつね》と言い、齢はちょうど今年で二十一になる。噂には全く持って鈍感と言われ才能は全くと言って良いほど無いに近いのだが、これでも陰陽師の端くれとして朝廷に努めている。
「しまっ――!」
ぬかるみにはまり足を取られてもたついてしまった。すると、そうなるのを待ってましたとばかりに、後ろから何者かがワタシに鋭い爪を突き立て襲い掛かろうとして来た。
「くっ……!」
それにハッと気が付いたワタシは、着物を破かれつつも間一髪のところで何とか攻撃を避ける事が出来た。がしかし、ふいに爪が左頬をチッとかすめて、紅い血が頬を垂れて来ていた。
実はその何者と言うのは、物の怪のことであった。物の怪は靴を履かずにボロの絹を身にまとい、小童のような幼き格好をしているのだが、顔をすごく醜く小さき角を一つばかり生やしていた。これが俗に言う、小鬼めらである。
その小童のような格好をした物の怪――小鬼めらに、陰陽師たるワタシは情けなくも背中を見せ追われているのだから、やはり才能が無いのだと言う他ないのかもしれない。それでは、何故にワタシが近くに住んでいる者ですらも誰も近付こうとしない、この「月黄泉の森」へと足を踏み入れてしまったのか語る事しよう。
話しは、三日前の夜にさかのぼる――。
……ひんやりと、何処か冷たい夜の風が大地を吹き付けて来ては、砂をカサカサと舞い上げて連れ去って行く。それを頬で感じつつ、ふと何を思ってか顔を上げ夜空を見上げてみれば平安の地の上空。誰かにかじられてしまった哀れな三日月が赤々と照り付けており、この日は雲ひとつ無いほど、とてもしんみりとした夜空だった。
その寒々と冷え切った都の七条朱雀大路を、一つの牛車が何処かの帰りであろうか。わびしい松明とぼんやり浮かぶ月明かりだけを頼りに、とろとろと内裏に向かって進んでいた。時間にしてちょうど亥の刻――今にしてだいたい午後十一時頃になる。そして悲劇は、この悲鳴により始まった。
「ぎゃああああああああぁぁぁぁ!」
左大臣藤原之持《ふじわらのこれもち》様が、あまりの恐ろしさになんともすざまじい大きな悲鳴をあげたのだ。最初に異変に気が付いたのは、連れの者五人であった。連れの者達はそれぞれ、手に松明の灯りをかがけて牛を引いて歩いていたのだが、ふと何か気に掛かって振りかえって見てみると、後方の方からぼんやりとしたほのかな灯りが見え、ひたひたと妖しく近付いて来るではないか。
初め、それは之持様と同じく夜遊びをしていた誰かの牛車の灯りかと思っていた。ところが、牛車にしては牛が何処にも見えないのである。車は見えるのだがただただ、ぼぅっとしたあまりにも青々過ぎる灯りが、目に映るのみ……。
ぎゅっぎゅうと言う牛車を引く手綱の音もしなければ、車の車軸がぎぃぎしときしむ音さえもしない。
なのに、何故か牛車がゆっくりと近付いて来る。
これはおかしいと思った連れの者の一人が目を細めて良く見てみると、その近付いて来る牛車の左右にゆらりふらりと、赤鬼と青鬼がぼんやりと現れ出していた。かと思えば、牛車の後ろには女房・更衣の唐衣を来た、骸骨やら物の怪やらがぞろぞろと何故か規則正しく付いて来てこちらに向かって来ていた。俗に言う百鬼夜行だ。
「面妖な――!」
連れの者に言われて簾から外を覗いてみた之持様は、けげんな顔でそう呟いた。その間にも、どんどんとその牛車はこちらへと近付いて来るではないか。
「之持様、これがもし妖異のものであれば大変危険でございます。どうぞ、お速くお逃げくださいなさいませ」
連れの者の一人が、之持様を見てそう慌しく言って来た時だった。突然、何を思ったのか之持様の車を引いていたはずの牛が激しく暴れ出したのだ。地面を激しく蹴り上げ首を縦横にしゃかりきに打ち振って、牛は横手へなんとか逃れようとする。それを制しようと、連れの者達が慌てて力いっぱい牛の手綱を引っ張る。しかし牛のなんともすさまじい力で、車が横へぐいぐいっとあらぬ方向へとひねられた。その瞬間、轅(ながえ)の一本が牛の引く力に耐え切れずに折れてしまい、車は体勢を保つことがなくなってものの見事にドシンと横転してしまった。しかもそのはずみで、牛の首に掛けられていた軛(くびき)が外れてしまい、牛はそのまま之持様らを置いて、脱兎のごとく逃げ出して行ってしまったのである。
牛も逃げ、車も横転してしまった。連れの者達はそれに恐れおののき気が動転してしまったのであろう。五人いたうちの三人もの人数が、恐怖に耐えかねてわっと声を上げながら牛の後を追うかのように逃げ出して行ってしまった。ぽつりと逃げるのに遅れてしまったような、一人の従者は腰が抜けてしまったのであろうか。情けなくもへっぴり腰になっていた。
「こっ之持様、だだだだっ大丈夫でございますか……?」
何とか逃げ出さなかった従者の一人がそう呼びかけてみると、横転してしまった車の中から、冬眠からようやく覚めた蛙のごとく、もぞもぞと之持様が這い出て来た。雨は降っていなかったのが、何よりの幸いだった。もし降っていたならば、之持様は全身泥だらけになってみすぼらしい姿になっていたであろう。
突然、ごうっと後ろに横転している之持様の車が、炎を上げて激しく燃え始めた。連れの者のうち、その一人が逃げる時に投げ捨てた松明の上に車がかぶさって、簾に火が付いたためだった。めらめらと、車が唸りを上げて燃え盛る。その間にゆるゆると之持の目の前まで進んできた牛車が、そこではたと停まった。
「……そこを、どいてはいただけませぬか?」
牛車の中から、妖しく澄んだ女の声が響く。
しかしながら、蛙のようにもぞもぞと命からがらようやく車から出て来た之持様は、動けないでいた。なんと情けなくも、之持様もまた恐怖のあまり腰が抜けてしまっていたのである。
「……かっかのような夜更けに、女の身が何処ぞへ参られるおつもりか?」
そのため之持様は、ビクビクとひどく怯え震えながら、必死に問い掛けてみた。すると、すすすっと簾が持ち上がり、そこからぼぅっと女の顔が覗いた。大きな扇子を口に当てて目だけを覗かせているために良く分からなかったが、扇子の隙間からふっと見える女は一瞬はっとしてしまうほどの容姿で、冴え冴えとした白い肌をしていた。唇はふっくらしているようだった。女の唇が、扇子越しに静かに動く。
「……帝様のいる内裏まで、参ろうと思うております」
女が目を細めてそう言う。之持様の鼻に、ふっと甘く香しい匂いが届いて来た。良く見てみると、女は今から嫁に行くような白い単衣を着こなし、白い被衣を頭からかぶって、左手で内側からその被衣をそっと支えている。それが、パチパチと燃え上がっている車の横に、あでやかに見えていた。
明らかにおかしかった。帝様から、明朝内裏に宮仕えする者や、側室を持つと言う話しは聞かされていない。いや、それより何より、この面妖さは……。
之持様は未だ、腰が抜けて身体を動かせないでいた。でも、それは之持様のせいではなかった。何故ならば今、女の黒々とした長い髪がまるで手のように、一房いつの間にか之持様の身体をきつく、ぎゅうっと強い力で縛り付けていたからなのである。それに、女が美しくて静かに話すと言うのも、ますますもって恐ろしい。その恐ろしさゆえに、之持様はついに甲高い悲鳴を上げたのだった。
そして女は、薄笑いを浮かべながらこう付け加えた。
「……七日かかって、ようやく帝様のところまで参上する途中なのでございます。どうぞ、そこをどいてくださいまし」
まるで、邪魔者扱いだった。しかし、之持様は恐怖のあまり未だ動けないでいる。また、女の子黒髪が之持様に巻き付いていて動かせない。それにようやく気が付くと、女は長く黒々とした髪を自由自在に操り、之持様をなんと横手へとどかした。之持様を脅かせてしまったと言う罪悪感か、それとも何かの考えがあっての事のか……。
――その時だった。それを横で恐ろしげに見ていた連れの者の一人が、之持様を絞め殺そうとしていると勘違いし、すらりと腰の刀を引き抜いて、
「へやあっ」
と、まるで腰抜け状態ながら目をつぶって震えながらも女の長い黒髪に切りかかったのである。女の髪は斬られそうになったその瞬間、ぎゅるりんとすばやく刀を避けては、連れの者の刀や身体にすばやく絡み付いて動けなくした。……いいや、その時には、それはもう女の黒髪ではなくなっていた。それは長く、鋭く、白く、それでいてとても毛深い腕となっていた。
「あな恐ろしや、あな恐ろしや……。都とは奇なるところぞ……」
女は、恐ろしい恐ろしいと言っておきながらわざと薄笑いを浮かべて見せ、連れの者をじぃっと殺気立ったかのように睨み付けてそう言う。かと思えば、女の白い被衣と単衣がはらりとはだけ、女はまさに鬼のような顔立ちになり、瞳はまるで猫のようにギラリとまがまがしく輝き出した。その次の瞬間、鬼の形相になった女は連れの者を簾の中へと強引に引きずり込んだのである。
「うわああああ!」
連れの者が簾の中へ引き込まれてからものの数秒後、けたたましい叫び声と悲鳴が車の中からものすごく聞こえて来た。之持様はその声の恐ろしさに、ぎゅっと両手で耳をふさいでいた。
ふいに、連れの者の叫び声がとんと聞こえなくなってしまった。どうなったのかと思って見てみると、左右と後ろにいたはずの鬼達や物の怪や骸骨達が、何やらざわざわと一点に集まり群がっている。
それは、連れの者の死骸であった。そう言えば、もう一人の従者もいつの間にかいなくなっていた。きっと油断している隙に襲われてしまったのだろう。
それを鬼達や物の怪や骸骨達が、ごりごりむちゃむちゃくちゃくちゃと、むさぼるように食っていたのだ。その恐ろしすぎる音に、之持様は声も出せずに、背中の毛が逆立っていた。
なんとか彼らに気付かれずここから逃げ出さなければ、今度は自分が食われてしまう――!
そう言う恐怖がぞっと背筋を凍らせて、之持様は必死にその場から逃げようとする。しかしながら、恐怖にかられ足が思うとおりに動かせない。その間にも、連れの者が食われている末恐ろしい音が、後ろからすざまじく聞こえて来る。
助けて……っ!
助けてくれ……っ!
之持様はその恐ろしさと恐怖に、ぎゅっと両手で耳をふさいで祈っているしかなかった。
長い長い夜が、ようやく白々と明け始めて来ていた。ようやく、身の毛のよだつよううなむさぼり食う音が止んだ時にはもう、連れの者の姿は何処にも無く、おびただしい血だけが地面に染み付いて残されていた。鬼や物の怪、あの牛車の姿も、もう何処にも無かった……。
助かったと思った之持様は、とても疲れた表情を浮かべ壁に寄りかかり、涙を零しながら太陽が昇りまばゆく明け行く東の空をぼぅっと眺めていたそうな……。
その奇怪な出来事が起こってからおよそ二時間後――一刻あまりになるのだが、急遽陰陽師たちによる占いが行われ、朝廷に報告された。
「これは……非常に、怪しき兆しでございます。之持様が見た百鬼夜行……それに牛車に乗った鬼がもし大内裏に現れれば、平安の都始まって以来の、恐ろしき事が起こるとの、占いに出ております。しかも、この鬼……ただの鬼ではございません。非常に負の力を持った恐ろしき鬼でございます」
陰陽頭の賀茂千影《かものちかげ》様が、とても難しく苦悩したような表情を浮かべながら朝堂院の奥、大極殿《たいごくでん》の高御座《たかみくら》に鎮座している帝様に淡々と説明する。
「なっなんと!」
「そのような事がっ!」
「あな、恐ろしや!」
それを聞いた他の役職である天殿人達が声を揃えて驚きあふれ、どよどよと動揺した。
「……して、どのような恐ろしい事が起こると言うのじゃ、千影よ」
今まで黙っていた左大臣藤原之持さまの代行である太政大臣藤原種光《ふじわらのたねみつ》様が、動揺しざわめいている皆の声を静めてつまらなさそうな顔をしそう尋ねて来た。
「それは……まだ分かりませぬ。しかしながら、之持様の聞いた事が正しいとするならば、都にだけでなく帝自身にも今までには無い恐ろしい事が、必ずや起こりましょうぞ」
「今までには無い恐ろしい事……。ふうむ、こう申されておりますがいかがなさいましょう?」
そう言う千影様をチラリと見やり、種光さまは帝さまに話し掛けて来た。
「……ふむ、どうしたら良いと思うか? 考えがあるならば申してみよ、種光よ」
帝様は簾の中から、外の様子を見ている。
恐れているようにも見えるが、それも致し方なかった。
「はっ、そうでございますねぇ……それならば、どうでしょうか。ここは一つ、この陰陽頭である賀茂千影に全てを任せてみては。右大臣の藤原諸輔《ふじわらのもろすけ》殿は、どのようにお考えですかな?」
「……恐れながら、私めもその方がよろしいかと御思いでございます」
諸輔様が、深々と頭を下げて言う。
「ふむ、それでは帝様もそれでよろしいでしょうか?」
そう尋ねて来る種光様に、帝様はただ一言、「うむ……」と呟いた。
それから夜を待ってすぐに、陰陽師達はその牛車に乗った鬼どもを世の理を持って制する事にした。
ところが、うまくはいかなかった。逆に、陰陽師達が物の怪たちによって足元を掬われていた。
最初の被害者は、都の陰陽師の中でも随一の法力を持つと言われた、源靖忠(みなもとのやすただ)様とその従者三人あまりだった。靖忠様は、千影様の次期陰陽頭に推薦されていた人物であったのだが、百鬼夜行と牛車に乗った鬼を退治しに行って来ると言ったきり、靖忠様ら四人はもう二度と戻ってなど来なかった。一体彼らはどうしたのであろうかと皆が不安になっていると、朱雀大路六条大路の途中の道に、見せしめであろうか地面に無造作に転がった靖忠様の生首とその時に流れ落ちたであろう大量の血だけが、泥まみれになって残されていたのを検非違使《けびいし》達によって発見された。
第二の被害者は、陰陽師源靖忠さまと肩を並べる実力者、橘元方《たちばなのもとかた》様とその友二人と従者五人あまりだった。元方様は、源靖忠様と昔ながらの幼馴染であった。二人の親も知り合いであったため、家族がらみで一緒に遊んだり、大学で一緒に術を学んだりと、幼い頃から二人はいつも一緒であった。靖忠様は元方様の事を、元方様は靖忠様の事を、誰よりも良く知っていた。そのためだけに、靖忠様が負けてしまうと言う事が多分信じられなかったのだろう。元方様達は、靖忠様の仇を討つために、自ら朱雀大路五条大路へと向かって行った。しかしその後、元方様も靖忠様と同じように地面には首と大量の血だけが朱雀大路五条大路の途中に泥まみれになって残されていた。
二人と従者数名もろもろの被害者が出て、ようやく陰陽頭賀茂千影様は、かなり危うい事態だと言う事に危機を感じていた。陰陽寮屈指の法力の持ち主である二人とその従者数人がむざむざとやられてしまったのだ。これはただ事ではない。そう思って、千影様は非常に悩んでいた。
実は千影様、ものすごく情けなくもとても気の弱い男であった。そのために、牛車に乗った鬼と百鬼夜行に真っ向から闘いを挑む事など、とてもと言って良いほど出来る訳がなかった。――いや、例え出来たとしても、必ず負けるに決まっている。そんなみすぼらしい闘いを、千影様はしたくなかったのだ。
しかし、陰陽寮一位、二位を争うほどの法力の持ち主二人を、すでに殺されてしまっている。こうなったらば、千影様が出るほかに誰もいない。
千影様は、頭を悩ませていた。そこへ、一羽の雀が庭にある梅の枝に、ぽとりと降り立った。そしてもう一羽、親鳥であろう一回りほど大きい雀がぽとり、先に枝へと降り立った雀を追って降り立った。
それを何気なく見ていた千影様は、ふいに目を大きく見開き、ある事を思い出した。
何時の時だったであろう。確か、まだやっと物心つき始めた、小さき子供の頃だったはずだ。祖父に、煌々と光り輝く、摩訶不思議な石の存在を聞いたのは――。
その石は、はるか宇宙の方からやって来たとされており、神々しくも不思議な色を発していた。そして、その石を手に取ると、不思議と法力が強くなったと言う、摩訶不思議な話し……。もちろん、子供の頃はそんな石はないと、思っていた。しかしながら、もしそんな石があると言うのならば、今それが欲しい。
藁にもすがる気持ちだった。
千影様はすくりと立ち上がって、その話しを詳しく思い出そうとした。
嵯峨……? いや、違う。では、東山か……いやいや、もう少し東よりだった気がする。一体なんだろう、喉まで出かけているのになぁ。え~っと確か、ひ・え・い・ざ・ん……? 比叡山か! と言う事は、比叡山の何処にあるのだろう――?
悩める千影様の額に、フツフツと冷や汗が伺える。冷や汗はそのまま頬を伝って、千影さまの手の甲へと落ちて来てピシャンッと跳ねた。
「……月黄泉の森」
ぽつりと呟いた千影様の手から、杓がゴトッと零れ落ちた。それもそのはず、「月黄泉の森」とは、鬼門の方角に当たり、もっとも妖かしや物の怪が多い森でもあるのだ。その森へ行くと言う事は、死を覚悟したも当然。それゆえに、誰も近付こうとはしないのだが……。
しかし、今はそう言う贅沢も言っていられない。帝様の、平安京の人々全員の命が掛かっているのだ。私が、ここを離れる事はまずもって無理に近いだろう。それに、場所も残念ながらあやふやなのだ。腕の立つものをそんな危ない、あやふやな場所に行かせるわけには行かない。だけど、それじゃあ誰が行くのだ?
悩める千影様の手の甲に、またもぽつりと頬を伝い冷や汗がしたたり落ちて来ては、飛び跳ねた。
「千影様、千影様」
ふと、誰かが呼ぶ声がして、千影様は薄らと目を開けた。
「千影様、この書簡は何処へしまっておいたらよろしいでしょうか?」
危なっかしい足取りで書簡を持ちながらそう尋ねて来たのが、橘忠常――ワタシであったのだ。ワタシはちょうど書簡の整理などの雑用をこなしていた時だった。
その時、千影様の脳裏にある思い付きが生まれた。
「のぅ忠常よ、今からお前に重大かつ重要なお使いを頼もうと思うておる。心して聞くが良い」
そう言って千影様は、摩訶不思議な石の話しをワタシにして来た。
「――でだ、忠常よ。お前にその石を、取って来てもらいたいのだ。重大で重要な使命だが、出来るか?」
その言葉を聞いて、ワタシはやっとお役に立てると誇らしげだった。
「ははぁ、なるほど分かりました。その、光り輝く摩訶不思議な色を発した石を取ってくれば、良いわけのですね? もちろん、任せてください。必ずや取って来て差し上げます。では、今夜あたり、早速行ってまいります」
その言葉に、千影様はとても喜んだ。そこで千影様は、出来るだけ詳しくその石の事を教える事にした。その石は森にある事。比叡山より北東の方角にある事。また、その森を人々は「月黄泉の森」と言っている事も。ただし、ある重大な話し、恐ろしい事実を隠して……。