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新人賞投票

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 2009年12月25日(金)13時 ~ 2010年1月25日(月)13時
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パープルタウン

 人って、案外ころころと転がるもんだなって思った。首が妙な角度に曲がり、身体<からだ>が捩れ、粘土でつくった人形のようにぐにゃんぐにゃんしている。そのくせ結構丈夫で、床に叩きつけられても跳ねるし、蹴られれば壁に激突してバウンドする。ボールみたいだ。あっ、そうか! 身体がくにゃっとしてるからぶち当たっても大丈夫なんだ。反射的に、衝撃をうまいことかわしているんだ。人って、すごい。ちょっと、びっくり。
 でも、やっぱり、限界ってものがある。人って、もろかったりもするから。
 ここはひとつ、動ける自分が<・・・・・・>いくしかない。
 右手で握り拳をつくり、左手で落ちていたチラシを引っつかむ。
 早く行かなくちゃ! ――だって、殺されちゃうから。

     Ⅰ

 どんっがらがっしゃんっっっとド派手な破壊音がビルの廊下に響いた。音を奏でた張本人は、至って普通に散乱するブツの中で髪をかき上げる。ふっ、と息を吐き。
「なにをするんだ」
 と、抑揚のない無機質な声で答え、ズレたサングラスをしなやかな指で整える。その仕種は、全く優美であった。
ドアをぶち破ったまま倒れている男を見下ろしていた些樹<さき>のこめかみに、ドドッと青筋が浮いた。足を踏み鳴らして傍まで行き、仁王立ちする。
「働かざる者食うべからずって言葉知ってる? 日本語通じる? 私はね、このチラシを配ってきて頂戴って言ったの。ポスティングしてきてって言ったの。それくらいなら夜しか動けないあんたにだってできると思ったから。簡単でしょ? お宅訪問しろって言ってるわけでもないし、手渡しで配ってこいって言ってるわけでもない。さっと行ってポストにすとんって入れてくるだけでいいの。さあ、できなかった理由を聞いてやろうじゃないの、反論してみなさいよ!」
 手づくりのチラシは何日も前に渡してある。それなのにこのぼんくら男は、些樹が苦労してつくった宣伝用のチラシを数枚――なんと一〇枚にも満たない――配っただけで、しらっとしているのである。そこへきて「腹が減った」「食い物はないのか」と訊かれれば、どれほど温厚な人物であろうとも、こめかみの血管がぶち切れるというものだ。
 世知辛いこのご時世、トアル理由でまっとうに働けない二人は(もとい一人は全っ然当てになどしていないが)、なんとか世間を渡っていこうとトアル理由を最大限に活用するべく〝なんでも引き受けマス屋〟を開業した。が。閑古鳥なのであった。
 それも仕方のないことだった。二人がこのテナントを借りて以来、「幽霊を見たっっっ」情報が錯綜し、このビルに入っていた他のテナントは次から次へと撤退した。悪い情報というものはアッという間に広がるらしく、気づけば近隣のビルもすっからかんになっていた。すっかり寂れた駅前通りは、文字どおり、駅のある通りになった。
 ズキズキと痛むこめかみを揉み解しながら、些樹は、倒れたまま起きようともしない男に無言の威圧をかけた。そして、サングラスの下でそわと動いた視線を見逃さなかった。長い付き合いである。たとえ男が無表情であろうが、屋内でサングラスをかけていようが、なんとなく雰囲気でわかるようになった。なってしまった。
「………………剛力女」
 ぽそりと零れた呟きに、些樹のぱっちり二重の眦がきりきりとつり上がる。
「なんですってえぇぇぇッ」
 些樹は男をボコるべく馬乗りになって、襟首を絞め上げた。ぎりっと絞め上げても男は平然としたまま。されるがままに、首を揺すられているだけである。我慢の沸点に達した些樹が、手袋のはまったままの左手を振り下ろそうとした――ときだった。
「だめっ」
 声のしたほうへ、二人同時に顔を向ける。
「おねえちゃん、暴力はよくないよ。人ってね、呆気なく死んじゃうんだから」
 この平和な国で、しかも子どもには、なんとも不似合いな言葉だった。驚きで沈黙し、二人は寸分の狂いもなく脳内でその言葉を再生し意味を正しく理解してから、子どもを事務所へと招き入れた。どの角度から眺めてみても、小学校低学年にしか見えない子だった。

「人はね、丈夫なんだよ普通はね。でもね、知識のある人が殴れば一発で死んじゃうんだ。たとえば、みぞおちとか。わかるかな、このお腹の上のちょっと窪んだところを―――」
 些樹は片手でこめかみをトントンッと叩きながら、残りの手で降参のポーズをとった。どうもさっきから、話がヘンな方向に流れているのである。この子は、些樹のことをとんでもなく悪女のように思っているのではなかろうか……。
 ううぅぅぅん。
「ええっと、まずは名前を訊いていいかしら?」
 カーンカーンッと金槌を打つ音がした。相方が、玄関のドアを修理中なのである。あの男がまともになおせるかどうかは……まあ、遥か彼方においておくとして。
「ぼくは、橘<たちばな>頌大<しょうだい>」
「そっか、じゃ、頌クンね。私は朱俐<あかり>些樹。見事玉砕しあっちで独り哀しくドアと格闘している無様な男が伽藍<がらん>洸陽<こうよう>、洸って呼んでいいわよ」
「………………性悪女」
 呟きに、些樹のハーフアップにした髪が揺れた。しかしこの呟きに反応したのは、些樹だけではなかった。
「洸おにいちゃん、あんなに身体が細いのに骨折れてないのかな? 内臓に刺さってたら大変だよ。内出血してるかもしれないし……やっぱり病院に――――」
「はいはーいっそこまで。ねえ頌クン、世の中には着痩せというものがあるのを知ってるかな? 洸はね、ああ見えてもすっごく身体が鍛えられてるのよ。私が十人乗ろうが百人乗ろうが大丈夫! ほら、元気にほてほて歩いてるでしょ問題ないナイ」
 それでも頌大は、のんびりと釘を銜えている洸陽から視線を動かそうとしない。些樹は話の軌道修正をするべく子どもに向き直る。
「それで? 頌クンはなにしにここへ来たのかな?」
 子どもは一瞬なにを訊かれたのかわからないというふうに首を傾げ、次の瞬間明らかににハッとした。がさごそとポケットをまさぐり、チラシをびらっと広げた。対面のソファから身を乗り出すようにして、些樹の前へとそれを突き出す。
「この〝なんでも引き受けマス屋〟って、おねえちゃんたちのことだよね? ねっ?」
 なんと! あのでくの坊洸陽が配った数枚のチラシのうちの一枚を持っていたのである。信じられないヒット率、奇蹟の降臨だ。
「ここに書いてある【ムサラキ】って、おねえちゃんのお店の名前だよね? ぼくね、お願いしたいことがあるんだよ」
 そう――飲み屋の【村さ来】ではなく、【ムラサキ】は些樹と洸陽の屋号であった。些樹の苗字の朱と、洸陽の苗字の藍を足して二で割った色、紫。おそらく、二人の苗字に色がついているのはトアル理由が深くかかわっているのであろうが、それは未だに解明されていない。これを追求するためにも〝なんでも引き受けマス屋〟なんてのを開業してみたのだが。儘ならぬは浮世かな、なにをするにもまず金がいる。二人は平成の借金大王になりそうな勢いで、貧窮生活を驀進中なのであった。借金とりからは、トアル理由を駆使して逃れ続けているが、そろそろヤバいと些樹は思っていた。
 ここらで一仕事したいのである。仕事は歓迎する大歓迎する。しかしである。
「……ううんっとね、頌クンて、いくつ?」
「八歳。小学二年生」
 だよね。がっくりする些樹であった。子ども相手に金をせびるほど強欲でもないが、ボランティアしてやるほど心広くもないのだ。どう断ればいいだろうと、些樹がうんうん唸っていると。傲慢不遜な声が降ってきた。
「おい子ども。願いとはなんだ」
 いったいどんなふうに修理すればあんなコトになるのかわからないが、玄関のドアはピカソの名画のように壁に打ち付けられている。襲ってきた眩暈を振り払い、むきーーーっと洸陽の胸ぐらをつかみ上げようとすれば、「そんなことしちゃだめだよ」目線が些樹の横顔に突き刺さってきた。仕方なく、些樹は手を引っ込めた。
 ドカッと腰を下ろした洸陽に、こそっと耳打ちする。
「あんた、引き受ける気満々じゃないの」
「橘、に興味がある。気に入った。それだけだ」
 些樹は、再び襲ってきた眩暈と戦うので必死だった。どうしてくれよう、このクソボケ男。この男に二言はない、一度言ったら絶対に引くことをしない。どこまでも我が道を往くキング体質。また巻き込まれるのか――些樹は、鬱の波にも襲われた。
「いいわ腹を括ったわ。それじゃあ、なにか飲みながら話をお聞きしましょうか」
 途端。子どもの顔が、ぱあぁぁぁっと明るくなった。小花が咲いたようだった。

 外は小雪が降っている。雪は風にもてあそばれて、右へ左へと薄絹のように揺れていた。
 ココアをずずっとすすった子どもは、願い事だけを口にした。
「ハムスターを探してほしいんだ。ぼくのハムスターは普通のより大きいからすぐにわかると思うんだ。あのね、ご飯をあげすぎちゃって体長が45センチもあって名前は――――」
 同じくココアを飲んでいた些樹は、驚きのせいでそれをだぁぁぁっと吐いた。まさかそんなアニメのような展開が繰り広げられるとは考えてもみなかった。加えて。探偵社に乗り込んで「犬を探してください」「猫を探してください」なんてのはよく聞くが……「ハムスターを」なんて頼まれるとは、口に入ったココアもリバースされるというものである。
「……なんで、ハムスター?」
 一応、念のため、訊く。
 子どもは少し悩んで、それでも言わなければならない空気を察したのか、ぽつぽつと話した。
「ぼく……ぼく、お父さんに構ってほしかっただけなん、だ。お父さん、仕事であんまり家にいなくて、淋しくて。独りにされるのは慣れてたけど、やっぱり嫌だったんだ。だから、ぼく、ちょっとお父さんを困らせるつもり、で……」
 ここまで言われてしまえば訊かずともわかったが、些樹は思い切って訊いた。
「頌クンのお母さんは?」
「小学校に入る前に死んじゃったんだ。あんまり憶えてないけど、お母さんは優しかった。あのころはお父さんも優しくて、家にいて……。けど、お父さんはかわっちゃった。おっきな賞をもらってからカメラの仕事がいっぱいくるようになって……家に、いなくなった」
 おっきな賞――カメラの仕事――橘頌大――些樹の頭の中で、なにかが一本に繋がった。
 隣の洸陽を邪魔とばかりに押しのけて(急に胸を押されて苦しかったのか「ぐえっ」と唸り声が聞こえたが無視)、ソファの脇に積み上げられている雑誌や新聞紙をあさり出す。全部拾ってきたものばかりで無造作に積まれている廃品だが、なにがどのへんにあるのかくらいはわかる。
「あったよーこれこれ。頌クンのお父さんって、橘大でしょ?」
「おねえちゃん、知ってるの?」
「今や、時の人だもんねえ。見てごらん、これ」
 些樹は橘大が載っている箇所を開いて、子どもに見せた。橘大は、新聞社賞を受賞した気鋭のカメラマンであり、とくに花の写真<・・・・>は有名で、個展で好評を博している。頭の中で電卓を叩きながら、些樹は子どもを見つめた。うまくすれば父親から謝礼がっぽり! だ。
 頌大は、父親の載っているページに目線を落としたまま、呟くように言った。
「お父さん、カメラばっかりになっちゃって。……遊んでくれなくなったから。……そんなのなくなっちゃえばいいって思ったんだ。仕事なんか、どっかにいけばいいって。……それで、お父さんのSDカードを盗って、ぼくのハムスターの首輪にしたんだ」
 おとなしそうな顔をして、なんともすごいコトを致す子どもである。SDカードを小瓶に入れて、仲良しハムスターの首にかけてやったそうだ。
「……しばらく、ね。お父さん、そのSDカードに気づいてなかったみたいなんだよ。そりゃそうだよね、バックアップだってしてあるだろうし。だけどね、時々暗い顔するようになって。やっぱりSDカード失くなったのがイタかったのかな、って思ってたら……」
 子どもは、顔を歪めた。それは子どもらしくない顔だった。見てはいけないものを見てしまったかのような、苦悩が漂っていた。
「この前、きっちりスーツを着た男の人が、何人か家に来たんだ。……お父さんが、必死に玄関で止めたんだけど上がってきて、部屋はボロボロになった。パソコンもカメラも全部壊されて、やっと帰ってくれるのかなって……ぼく、隠れて見てたんだ。そしたら今度は、お父さんを殴りだした」
 それで、か――やっと些樹は納得した。この子が暴力に敏感なのは、目の前で大切な人が襲われたからなのだ。それはもの凄い衝撃だったろう。子どもには、酷だ。
「殴ってるヤツが言ってた。SDカードがないって。……お父さんは、ぼくの盗ったSDカードのせいで殴られてるんだって、気づいたんだ。でも、そのときには――――」
「ハムスターは逃げちゃったあとだったんだね?」
 うん、と子どもは細い首を振る。ぽきりと折れるようだった。
 些樹は額を叩いた。ハムスター探しだけならまだしも、なんだか厄介な話が付録されているのである。「きっちりスーツを着た男の人」ってだけで充分怪しすぎる。これはなんでも屋ではなく、警察に通報したほうがよいのではないだろうか。金は欲しいが、橘親子にはかかわらないほうがいいセンサーが、バリバリに赤点滅しているのであった。
 そして。もうひとつ嫌な予感が………………。
「安心しろ子ども。デカハムはこの女が探してくれる」
「ほんとッ!?」
 ぅわあぁぁぁぁっやっぱそうくるかあ――些樹は心の奥の更に奥で悲鳴を上げた。横のものを縦にもしない男が動くとは思ってもみなかったが、安請け合いは毎度、些樹に回ってくるのであった。あれもこれもどれも全部、承知で付き合っているのだが……哀しい。
 子どもが発するきらきらした視線を受け止めきれないまま、些樹はどうにかこうにか頷いた。もう、やるしかない!
「一度は腹を括ったんだもの、探すわ。それよりね、洸」
 優雅に紅茶を飲んでいる優男を一喝する。
「私が帰ってくるまでにドア、なおしておきなさいよ!!」
「ふざけるな。そもそもお前が俺を突き飛ばしたからああなったんだろう」
「黙りなさいっっっ! そもそもの前に、あんたがチラシ配ってこなかったのが悪いんでしょ。なおってなかったら、夜ご飯なしだからねッ」
 微かだが。洸陽の肩がぴくりと揺れた。

     Ⅱ

 やむ気配のない雪は、しんしんと小さな肩に降り積もっていく。凍る息に震えながら、些樹は、子どもが上着を持ってないことに気がついた。
「そんな薄着で来たの?」
 わずかに子どもはきょとんとしてから、「うん」と頷く。困った些樹は一旦私室へと戻り、洸陽の服(モノ)を適当に見繕って着せてやった。サイズ的には些樹のもののほうがよかったが、女モノを着せられては頌大も嫌がるだろうと思ったからだ。
 まずは頌大の家へ行くことにする。ハムスターなんて生き物に触れたことがない些樹は、どこをどう探したらいいのか全くあたりがつかないのだった。とにかく地道にご近所から探していくしかない――そう、決めてのことである。飼い主の頌大も、家ハムとしての知識しかないようで、それが外に出ると「どんなところに隠れるのかわからない」と言った。
「洸おにいちゃんは、一緒に来ないんだね?」
 事務所を出てからずっと、子どもがなにか訊きたそうにしていたので、些樹は嘘をつくことなく<・・・・・・・・>本当のことを教えてやった。
「あいつは特殊なの。見た目も変わってたでしょ」
 頌大は隣をてけてけと歩きながら、こくりと首を振った。子どもなりに失礼だと思ったのか、一瞬のためらいが感じられた。どの仕種も、とても可愛らしい。
「洸陽は名前負けしちゃったっていうか、ね。……もう、すごく昔のことになるんだけど。摩訶不思議の力を駆使するオジサンに、身体の色を盗られちゃったの。全体的に色素が薄いのね。だから髪も灰色を青で染めたような色をしてるし、肌も蒼白くて、瞳もガラスのような透明に近い碧。そのせいで陽射しに弱くなっちゃってね、昼間は室内でも目が灼けるからサングラスしてるのよ。もちろん、昼日中に出歩くなんてもってのほか」
 こんな話。まともな子なら信じないだろうが。返ってきた言葉に、些樹は目を眇めた。
「……今日は天気が悪いけどダメなの?」
「うん、ダメ。まっ、快晴の日よりはダメージが少ないから今日は起きてたの。健康な人間にはさっぱりわからないけど、微妙になにかが違うみたい。室内で起きてるのも、やっとなのよ。あいつの世界にはね、暗くて深い闇しかなくて……ずっと、ずっと、太陽を見ることなく生きてきた。自分の双眸で見られるのは、せいぜいが紫に滲む空だけ。朝方と夕方の、ほんのちょっとの時間しか見られない」
 子どもは、身体をのけ反らせて空を仰いだ。歩きながらだったので、電信柱に激突しそうになり、些樹はひやりとさせられた。
「空を見られないなんて……悲しくないのかな? 外には色が溢れてるのに」
 写真家の息子だからだろうか。表現が綺麗だな、と些樹は思った。
色のことにはふれず、子どもの頭を撫でながら言ってやった。
「洸は強いから心配しなくていいのよ。なによりあいつは、綺麗なものをちゃんと見ているもの。朝焼けと夕焼けに染まる景色を知っている。月と星が、夜道を照らすことも知っている。たぶんね、ごく普通のサラリーマン生活をしていたら、目にもとまらなかったような繊細な世界を真っ直ぐに見つめることができるの。だから、哀しくないのよ」
 もし、洸陽が哀しむとしたら――それは満月の晩だろう。月の明かりが隙間なく降り注ぐ、恍惚の一夜。月光を浴びて胸に湧く恐怖。それは自分のためじゃなく……。
 つと視線を下に落とすと、頌大と目が合った。
「おねえちゃんは淋しくない?」
「なにが?」
「だって、洸おにいちゃんとどこにもお出かけできないってことだよね? ずっと一緒にいるのにお出かけできないなんて、ぼく、そんなの嫌だ」
 正論だな、と些樹も思う。この子は同い歳の子に比べて、ほんの少しだけ早く大人になっているのだ。自分の心の痛みと向き合ってきたから、他人の痛みもわかる。本来なら、大人に甘えて我が儘を言える時間を独りで過ごしてきたために、孤独というものを知ってしまった。
今は、こんな子どもが多いのだろう。手を差し延べて、小さな手を引いてやらねばならない時期と、大人ががむしゃらに働かねばならない時期は重なっている。大人が必死に夢を追うころ、子どもは膝を抱えて待っている。とても不幸な、現代の親と子どもの図式。
 反面、それは幸せなことでもあるのだ。誰もが自由に仕事を選べて、自分の望む道を進むことができる。夢をつかみたいから、努力することができる。誰も、その行為を悪く言うことはない。批判されることもない。
 ただ――大人の都合でおいていかれるのは、いつの時代も子どもなのだ。
 それを理解している大人が、どれほどいるだろうか。過去の時間が長くなるにつれて、子ども社会の出来事は忘れてしまう。子どもがなにを想い願っているかなんて、想像もつかなくなってしまう。目の前の、橘親子のように。
頌大の場合。親と離れていた分、周囲に気を配れるようになったから、よかった。心根の優しい、素直な子の証。最後の最後までひたすら我慢して、けれど本当の最後<・・・・・>に本音を言える子。
「お父さんとお出かけしたい。土曜か日曜のどっちかだけでもいいから、一緒にいたい。お出かけがね、どうしてもムリなら家にいてもいいんだ……遊んでくれれば。ゲームやったり、テレビ観たり。ご飯をね、おしゃべりしながら食べてくれるだけでもいいんだ」
 可愛さのドンツボを衝いてくる子どもである。八歳にして早くもおねえさまキラーではなかろうか。それが無意識だから始末が悪い。たまらなくなって、些樹は、子どものつるっつるした頬を軽くつねった。
「いひゃい<痛い>よお」
「ああ、ごめんね。ついうっかり」
 笑いながら、些樹は頬から離した手を振る。子どもは「いたたっ」と呟きながら、でも抗議することなく、些樹の手の動きを目で追っていた。名残惜しそうに。
「私もね、洸とお出かけしたいわ。この時代は二四時間営業の場所が増えたから、全く一緒にいられないわけじゃないけれど。やっぱり淋しいわね。テレビで話題のスポットとかは殆ど昼間しかやってなくて、見る度に哀しくなる。いつか一緒に行ける日がくるかなって、虚しいくらいに妄想もする。……でも、気づいたのよ」
 気づいた? と子どもはオウム返した。
「なにが一番大切かって、コト。私にとって大切なのは洸と一緒にいられることであって、洸と一緒にお出かけすることじゃないの。洸の傍にいられることが大事なのよ最優先事項なの。この気持ち、頌クンならわかってくれるでしょ?」
 大切な人がいなくなるくらいなら。些細な悲しみはかなぐり捨てて、その人を必死に護ろうとする。頌大が最後に本音をぶちまけて【ムラサキ】にやって来たのは、大切な父親を護ろうとしたからなのだ。父親がいなくなってしまうことが耐えられないから、その先にどんな結末が待っていようとも、構わず動いた。自分のしでかしたことで、父親が怒るかもしれないと気づいていながら、しかし父親を救いたくて。
「……うん。ぼく、わかるよ。お出かけできないのは嫌だけど、いないのはもっと嫌だ」
 純粋な子ども。穢れを知らない子ども。このまま大人になってくれたら、いい。そうすれば、世の中はもっと住みやすくなるのに。
 頌大は、ほっこりと笑った。
「ケンカしてたから、おねえちゃんは洸おにいちゃんのことが嫌いなのかと思った」
 なんともマズいところを目撃されたものである。
「ああ、あれねえ」と、些樹は頬をぽりぽりとかいた。
「洸おにいちゃん、カッコいいよね。背も高いし、なんか歌をうたうヒトみたいだった。着てる服もカッコよかった、ぼくに貸してくれてる服もいいよ。それにね、玄関のドアをあんなふうになおしちゃうなんて、天才なんじゃないかな」
「はっ?」
 頬をかいたままの姿勢で、些樹は派手派手しく固まった。
 ドアを指摘するあたり芸術家肌だが……微妙に視点がズレている。なにやら頌大は独り納得顔でうんうん頷き、
「あれだけカッコよければ傍にいたいって気持ち、わかるよ。他のヒトに盗られるんじゃないかって心配になるよね。おねえちゃんたち、結婚するの?」
「へっ?」
 次から次へと繰り出される素っ頓狂なセリフに、面喰った。言語基礎能力の高い些樹も、頭を高速フル回転させるが追いつかない。子どもは今、なんと言った?
 ――カッコいいよね。
 まっ、そこだけは認めないでもない。中身は無茶苦茶デタラメ適当半端男だが、顔といいガタイといい、モデル並みのルックスをもっている。過去に些樹は、芸能事務所に履歴書を送ったくらいなのだ(よくよく考えれば日光を浴びられないので土台無理な話なのだが)。プライベートは秘密のベールに包まれた〝いつでもどこでも影のある人間〟として売り込もうと本気で画策していた。
 いや、それよりも。
 ――他のヒトに盗られるんじゃないか……結婚……(ここだけは異常にリピートされた→)結婚するの?
 今時の八歳児は、こんなことをごく普通に会話に織り交ぜてくるのだろうか。おーい頌クン、世間に流されていないかい? いやいやいや、これが普通なのか? 小学生のセオリーなのか? 自分が時代に乗り遅れたのか???
 確かに洸陽がいなくなるのは、いろいろな意味を含めて淋しい。あんなヤツでもいないのは不便なのだ。長い時を彷徨い見つけた、唯一無二の絶対的な同志なのだから。
「ええっと、ね」
 腕組みした些樹は、自分の言葉のどこに誤解を招く要素があっただろうと真剣に悩んだ。「傍にいたい」発言がいけなかったのか? と、ハタと思い当たった。
 なんだか頌大の脳内では、洸陽が「カッコいい」=「いいヒト」に変換されているような気がしたのである。そして。嫌な予感ほど高い確立で的中する。
「洸おにいちゃん優しいよ。ぼくの話を聞いてくれたし」
 それは、すちゃらかなあいつが後先考えていないからだ。なにも考えていないから、頭がすっからかんだから。――と些樹は言いたかったが、喉の奥に突っ返した。純真無垢な子どもの希望を奪ってはいけない、理想を壊してはいけない。……些樹はぐぐっと拳を握って首を振る。ここはひとつ、現実の恐ろしさを教えてやるべきかもしれない。
「………………。……洸のこと、好き?」
 迷いに迷って、訊いた。
「うん、好き!」
 些樹は溜め息を吐く。
 常々クソボケ男と罵ってはいるが、他人にそれを言われると意味不明に「むっ」とするのである。頌大のように爽快に肯定してくれると、何気に嬉しかったりする。そのあたりの洸陽評価の基準がどうなっているのか、自分でもよくわからないが、とにかく褒められるのは気分がいい。
「頌クンはラッキーよ。洸も私もね、橘に興味があるの」
「苗字が?」
「橘って、ミカンの木のことなんだけど。知ってた?」
「そうなの? 知らなかった。あっ、でも、お父さんの写真にあったかも」
 些樹の目が、わずかに細められた。子どもは気づかない。
「写真に、白い小花が写ってなかった? ミカンの木は、枝に白い花をつけるのよ。……私たちはね、そういうふうに花を愛している人に興味があるの。逢ってみたいの」
「どうして?」
 些樹は口唇<くちびる>に人差し指を立て「しぃぃっ」と呟いた。左手だけにはまっていた手袋をとって、子どもに見せる。見せられたほうは「うわっ」と唸ったが、次の瞬間には両手で口を塞いだ。些樹が「しぃぃっ」と言った意味を咄嗟に理解したらしい。それは頌大が頭の回る子だということ。
「洸にも、同じようなのがあるのよ。あいつは左の目蓋にあるんだけど」
「へえぇぇぇっ!!」
「それもあってサングラスを外せないのよね」
 子どもは束の間黙っていたが、「綺麗なのにね」と呟くように言って笑った。それを見て、些樹も笑う。
「じゃあ頌クン、行きましょうか。デカハムちゃんを探しに」
 手を差し出すと、子どもは一瞬動きを止めたが。そろそろと伸ばした手を繋ぐと、とても楽しそうにぶらんぶらんと振ったのだった。

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